騒動?


 神名は五日ぶりに、我が家で夕餉を摂った。岡場所に居続きをしていたのだが、とうとう金が果て、仕方なく家で食事を摂る。
「不味い」
 十二分に分かっていたとはいえ、つい口からでてしまう程、志門の作る食事は不味い。果たして口と喉に刺激をもたらすこの味噌汁を味覚音痴だけで片付けていいものか。
 しかしこれでここ五、六年過ごしてきたのだから、身体に害が無い事だけは知っている。我慢しているのは好いた弱み、とも考えたが、五年前はこの少年を思い浮かべて自慰をした覚えはない。
「お前ちょっとこれ呑んでみな」
 側で給仕をしている志門に、碗を口先へ持っていき飲ませる。
「出汁が薄いですか?」
 いや、そうでなくと突っ込むのも億劫になって黙る。
「では仕度をしてまいります」
「仕度?今日なんかあったか?」
 一礼して下がろうとする志門に聞き返す。
「神名様、じゃあなんで今ここにおいでなんですか?」
「………なんでだっけ?」
 志門の眉が顰められる。困った顔も可愛いなぁおい、から始まった少しばかり不埒な思考が脳内の大半を占めたので、神名は記憶の検索をおざなりにした。
「この朔日に打屋様の道場に出稽古に行くとお約束されていましたよね?」
 ずずっと神名が味噌汁を飲干す。
「………応、思い出したぜ打屋の道場に出稽古に行くって約束したな。そっか、そっか、今日だったか、すっかり忘れてたぜ。けど、やっぱ凄いな俺様は。偶然にも家に戻って来るなんざ」
 小言を云う体制に入る志門を制して、神名は出稽古に行く仕度をせかした。
「遅れちゃ悪ぃな、すぐ出掛けるから、仕度頼むわ」
 冷ややかな視線を受けながら、きちんと火熨斗がきいた袴を持たされて家を出る。
これで帰ったら志門が女房よろしく床の相手もしてくれりゃ、岡場所通いしなくてもいいんだがなぁ、とよく晴れた空を見上げる。
「今日も日本晴れときたもんだ。こんな日に木刀振り回さにゃならんとはね」
 気乗りがあまりしないまま神名は打屋道場に足を向けた。


 米粒一つ、味噌汁の具一片も残っていない朝餉の始末をさっさと終え、志門は部屋の掃除を始めた。
たとえ古い家でも掃除をして手入れを怠らなければ、こざっぱりとして住み良い。そう思いながら丁寧に竹箒を掛け床を掃く。
 床の間には神野家家宝の大刀がある。先年亡くなった神名の父・譲(じょう)が愛用していたそれは神名の背丈ほどもあり、床の幅に収まらないので立てて飾られてある。
 大刀を倒さないように気を配りながら埃をそっと払い志門は手を合わす。これを譲だと思って手を合わすのは、志門の先年からのクセになっていた。
 どうか、神名様が無事でありますように、放蕩癖が直りますように、早く奥方を貰えますように、などなど。
 両親を一度に失った自分をこの神野家に連れてきてくれた譲は、志門にとっては神や仏に等しい存在になっている。そのせいか、神仏に祈るような事までこの大刀を譲に見立てて祈ってしまう。
 祈られる大刀も草葉の陰の譲も、たまったものではないだろうが
 この尋常ではない長さの大刀を神名は愛用していない。腰に下げられず背中に背負わなければならないものを、この平穏な江戸市中に引きずり回すのが鬱陶しいようだ。
 この大刀を神名様が持ったのは何時が最後だったっけ、と鞘の埃を落としながら志門は思う。昔は剣の修行でよく振り回していたのだが。
 自分と同じ年には、神名はもうこの大刀をこともなげに扱っていた。
 幼い頃はよく神名の稽古に連れて行ってもらい、大の大人を次々と打ち負かしていくのを、わくわくしながら見ていた。
 譲が厳しく鍛えたので、何人もの大人を相手にしてもびくともしない神名はひたすら志門の憧れだった。
 そんな事を思い出したせいか、なんだか掃除に身が入らない。
 今頃道場で立ち回っているのだろうか。
 強くて格好いい主を想像して、志門の心は浮き足立つ。
「ココ爺…」
 庭を掃いていた祖父にそっと声を掛ける。
「あの………、…え、と…」
 顔を上気させ、雑巾を握ったり広げたりを繰り返す孫の肩に、祖父は手を置き頷く。
「行っておいで」
 しわがれた声が優しく許す。
「ありがとう、すぐ戻って来るから」
 慌てて飛び出した志門を見送り、ココ爺は何事もなかった様に再び庭を掃き始めた。
 よく知る道を胸を躍らせ駆け抜ける。江戸の町中は相変わらず人が多くて騒がしい。せわしい人々の間をすり抜けて志門は主の下へ駆ける。
 打屋の道場は大きく門人も多い。稽古見物の人も多く、その人々を掻き分けて窓に張り付き稽古場を覗いた。
 木刀の打ち合う音が引っ切り無しに上がっているが、そこに神名の姿はない。
 他の窓から見ても、主は見当たらない。
 嫌な予感がする。
 町に飛び出し、騎丹を探す。
 こんな時は、町方同心・黒野騎丹に限る。そしてこんな時の志門の嗅覚は異様に鋭く、騎丹をすぐに見つけ、神名の居所も程なく探り当てた。


 道場と自宅の丁度中間にある番所に神名は大勢の怪我人と共に居た。
 騎丹と共にやってきた番所で志門は唖然とする。狭い番所に大勢が詰め込まれ、皆、怪我の手当てを受けいてたり、同心・岡引に事情を聞かれている。
「黒野さまはあの侍の言い分を聞いて下さい」
 岡引が指したのは奥で胡坐をかき、自分の家で寛ぐように茶を啜っている神名。
「何しやがったんだ、お前は」
 詰め寄る騎丹に神名はのんびり答える。
「まあ落ち着けや。どうだ茶でも一杯」
「ふざけてんじゃねぇぞ、おいこら神名」
「ふざけてなんざいねぇよ。俺ぁ喧嘩の仲裁をしたんだ」
「嘘付け、あんたが一番暴れてたじゃねぇか」
 いつもの幼馴染のじゃれ合いに、手当てを受けていた町人や侍が突っ込んできた。
「俺は旦那さまが殴られてるのを見て助けに入ったんだぞ」
「んだと、こらぁ」
「それを云うなら私とてこちらの御仁を」
 たちまち総勢十四、五人が口々に叫び始めた。もともと喧嘩をしていたと云うのだから、その勢いはあっという間に蜂の巣をつついた様な騒ぎになる。
「まあまあ待て待て、ここは一つ、お前から話してみな」
 神名が一人の大工を指差す。
「この文吉が親方に俺の始末が悪ぃと告げ口しやがって、俺は給金減らされて女房に絞られ、ガキにぁおとうは格好悪いと云われ虚しい毎日を送ってるトコにこいつが飯屋で朝から酒を喰らってるから」
 殴り合いの喧嘩になったらしい。
「それを根に持ったお前ぇが、俺が親方のお嬢さんに懸想してるとバラしやがったせいで俺は仕事を辞めさせられたんだ」
 相手の解雇された文吉という大工が留に言い返す。
「お前のような飲む打つ買うに借金までしてる奴なんかにウチの娘はやらん」
 自分の所の大工が喧嘩していると駆けつけていた親方が喚いた。
「そうそう、借りたモンは返すのが筋ってモンだ文吉さん」
 偶々通りすがった借金取りがとっとと金を返せと喧嘩に参加。
「貴様が高利をふんだくるからから、我が家も苦しいのだ」
 その借金取りに金を借りているらしい浪人ものの恨み節。
「そうだ、このお侍の父上は立派な方だったのだぞ」
 浪人ものに変に肩入れをする身なりの良い、おそらく旗本の侍。
「ならお武家様がお金を工面してあげたらいかがです?ウチへの借金お返しした後に。それよりこちらの親方、あんたのトコに直してもらったはずのウチの木戸、また壊れましたえ。ええ加減な仕事せんといておくれやす」
 上方訛りの商人。
「それはこの文吉と留がした仕事だ」
 再び親方。
「文吉は多少やんちゃな男ですが、仕事はきっちりする男です。留の方がもっとしっかりしないといけない。お前の倅がウチの孫をいじめるから毎日泣いて帰ってくる」
 大工・文吉の大家。
「大家さんに手をあげるなんざこの大工とんでもねぇ」
 大家の店子もなぜだか喧嘩に加わったらしい。
 後の数人は、浪人ものの仲間、やはり借金取りから高利をふんだくられている町人、旗本のお付人、商人と親しい商売仲間。
「って感じに始めは二人の殴り合いにこいつらがどんどん加わっていきやがってよ」
 飛躍的に人数が膨れ上がった喧嘩は、自分の言い分を叫び敵味方を分別していたはずが、殴った殴らないのただの殴り合いの騒ぎに成り下がり、
「往来で一騒ぎになってるから、この神名様が仕方なくこいつら全員を(拳で)大人しくさせたんだよ」
 すごく楽しそうに名乗りを上げて自ら騒ぎに殴り込んでいく姿が目に浮かんで、志門と騎丹は同時に溜息を付いた。
 周りで騒ぎを見ていた人間達の話によると、神名は野次馬がはやし立てるのにも応えながら全員を地に伏させたらしい。
「まぁ人には色んな事情があって、それが今日偶々運悪く爆発しちまったっだろうけどよ」
 神名が茶をすすりながら、ひどくすっきりした笑顔を向ける。
「そうでなくても、火事と喧嘩はお江戸の華だ。目の前の騒ぎに加わりたいのが江戸っ子ってもんだろ」
 それが本音だ。
「云ってる間に打屋様の道場にお向かい下さいっ!! お天道様はもう真上から西に傾き始めているんですよ!!」
 志門に怒鳴られて今度こそ、神名は打屋道場に向かった。騎丹は二度目の大きい溜息を吐いた。


 お天道様が西に顔を隠し始めても主は帰って来ない。
 鉄砲玉と呟いて、志門は再び駆け出した。
 再度訪ねた打屋道場で志門を迎えたのは、奥方のキヨウだった。
「あら、やっぱり来たのね志門」
 打屋海造の奥方・キヨウは旧姓を黒野という。騎丹のすぐ下の妹で昨年打屋家に嫁いだ。勿論志門とも顔馴染みである。
「神名はとっくに帰ったわよ、あなたにコレをって云って」
 出された風呂敷包みには礼金なのか金子と、使わなかったらしい汚れも皺もない袴が入っていた。
「か、神名様が稽古に遅れまして申し訳ございません」
「あら、志門のせいじゃないでしょ。神名から聞いたわ、相変わらずの暴れん坊ぶりね」
 ころころと笑う。
「も、申し訳ございません」
「大丈夫よ、手合わせに遅れた相手にどれだけ平常心を保っていられるかも修行の内だってウチの人がいっていたから、あの遅れ具合は良かったんじゃないのかしら」
 神名が本日呼ばれたのは、門人の中から師範代に推挙されている者たちの実力を見るための対戦相手としてだという。豪腕迅業変幻自在の腕で、剣以外に手や足すら出る乱闘も得意な、要は剣筋が予測し辛い相手として選ばれていた。
 打屋の思惑は当ったようで、待つのに痺れを切らしてイラつき、ろくに打ち込む事すら出来ずに自滅する者がいたそうな。
 さすが打屋様、懐が大きいと志門が感心する。
「多分また遊びに行ったんじゃない?」
 キヨウの言う通りだろう。懐が暖かくなったら家には帰ってこない。
 もう一度丁寧に謝罪をしてから、打屋道場を辞した。
 道場を出た道には自分の影だけが長くのびている。
 子供達を迎えにくる親の声が遠くで聞こえる。
 小さい頃、夕焼けの中神名は志門の手を引いて家に帰ってくれた。少年のくせに既に固い手が志門を包む。
「兄貴って呼んでもいいぞ」
 その笑顔に両親を亡くし知らない町での心細さに泣きそうになっていた時、どんなに励まされた事か。
「神名様…」
 少しだけ、寂しさに囚われて志門は家路についた。


<End>

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