『神野家』


「志門ー、志門ー!!」
 神野家使用人、志門は玄関の方から自分を呼ぶ主の声の元に慌てて駆けていく。
「志門、膝!!」
 志門の主である御家人神野神名は縁側に腰掛け、ばんっと板間を乱暴に叩いてここに座れと場所を示した。
 二本差しは放り出されて縁側の隅に転がっている。
 ちょこんと志門が板の上に正座をすると同時に、神名がどかりと膝の上に頭をのせてきた。
 顔を志門の身体の方に向けて目を瞑る。
 自分の方に顔を向けて寝るのは主の不機嫌な時のクセである。
 主の総髪をそっと梳く。ゆっくりゆっくり、今現在、主の心を占める何かイヤな事を解きほぐすように。
「お前によ、…久しぶりにお頭付でも喰わせてやろうと思ったんだけどよ」
 眉間に皺を寄せ目を瞑ったまま、ぼそりと呟いた。
「この前、鮒を釣ってきていただきましたよ」
「お前ぇもう十四になるってのにちっともでかくなんねぇじゃねぇか」
 神名の大きな手が志門の骨ばった腕を撫でる。
 眉尻を下げて志門は小さく笑う。
 同じ年頃の者と比べると志門は明らかに小柄で、神名に言わせると貧相な体格の少年だった。
「今日はどうされたんですか」
 神野家は御家人でありながら無役の三十俵三人扶持。御家人の最低の禄という環境である。なので、当主の神名は何かで稼がなくてはならない。
 両親も既に亡くし、妻帯もしていないので、食い扶持は自分と古くからの使用人のココ爺とその孫の志門の三人分だが、その扶持ではとてもまかないきれない。その上主の神名が、酒はうわばみで、岡場所通いをするものだから遊蕩費がかさみ、家計は困窮する一方だった。
 そこで剣の腕だけはやたら立つのを活かして、武家や金払いのいい商家の用心棒。剣術道場の稽古相手等で日々を稼ぐ。
 たまに神名が無理やり借金を踏み倒して、それでなんとか食べていっているのだが、小さい時分から弟のように可愛がっている志門がいつまでも身体が小さいのが気になり、栄養不足なのかと最近何かと食わせるようにしていたので、少しでも稼ぎが欲しかった。それまで神名は江戸っ子らしく、宵越しの金は持っていなくても全然かまわなかったのだが。
 神名は食べる事に関しては人並み。ココ爺は枯れた人相と体格にあった細い食事。ところが志門は気が向かないと食べないという育ち盛りの少年にしては、いささか困った質であった。
「恵比寿屋の用心棒の帰りに、今にも死にそうな婆ぁと餓鬼が橋の下に居てよ、あんまりにもひもじそうなんで、つい」
「ご飯をおごってあげたんですね」
「悪ぃ…」
 骨と皮ばかりの少年を見ると志門を思い起こさせて、いてもたってもいられなくなった。
 しかしその二人連れに更に六人の子供が付いてきた。今更断るなど神名にできるはずもなく、せっかく稼いだ九割方を飯屋に持っていかれた。何のために稼いだのか分からないのだが、飢え死にしそうな人間を放って置くのも夢見が悪い。そんな自分に腹が立って、拗ねている。
「神名様がそうしたかったのなら、それで良かったんでございますよ」
 女子供年寄りには案外弱い主に優しく笑い、髪を梳く。
 志門が笑う気配に、やっと自分の虫は居所がおさまってくれそうだ。
「小銭にしか残ってねぇんだけどよ、団子くれぇなら買ってやれっぞ」
「じゃあ、神名様の好きな上野の濱屋さんの豆菓子でもお買いになったらいかがですか」
「志門が喰いてぇもんを買ってやるって」
「いいですよ、俺は神名様の好きなのが食べたいです」
 自分より七つも下の少年が自分を気遣うのが面映い。面映いと分かっていてもそれが無性に嬉しい自分がいる。
「んじゃ、後で一緒に出掛けようぜ」
「じゃあお昼までに掃除を終わらせてしまいますね」
 久しぶりに出店の並ぶ神社まで行くのは志門も嬉しいらしく、破顔する。
「んにゃ、昼までお前はこのままな」
 機嫌をなおし、鼻先を腹辺りに摺り寄せてきた神名に、志門は嬉しいような困ったような笑顔をした。

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