『やさしい悪魔』シモン悪魔バージョン 闇に沈む寸前の街角。狭い路地の奥がほの白く明るいのは、地面に血で描かれた魔方陣の放つ光。その檻に小さな悪魔が捕らえられている。 「頼む、たった一人の弟なんだ、怪我を治して、弟を助けてくれよ!!」 青年が血塗れの少年を抱き締めて、慟哭する。少年の両足は原形をとどめない肉塊に変わり果てて血と命を流し続けていた。 「お前の血と、寿命の半分を頂く」 小さな悪魔が静かに代償を告げる。 「なんでもやるから、頼むシモン!!」 青年は召還した悪魔に懇願する。 「承知した」 左手を青年の頭上に、右手を少年の頭上に翳す。 二人は蒼白い光に包まれると同時に、引き千切られるような衝撃に全身を襲われる。その耐え難い痛みに呻きを漏らしながらも、兄は弟の体を決して離さない。 やがて光が収束し、唐突に痛みから解放されると、二人は恐る恐るお互いの無事を確かめ合う。 青年の顔は土気色に変わり、今にも倒れんばかりに震えている。少年の両足は腿の途中で無くなり、断面は肌と同じ色をしていたが、顔には生気が甦っていた。 「い、きて…る」 二人が泣きながら抱き合うのを見て、シモンと呼ばれた悪魔はやれやれ、と思う。 実は自分の魔力では、少年が無くした両足を再生できない。せいぜいが傷口を塞ぐ程度だ。だから兄から弟に血を移して失血を補い、ここで死ぬはずだった少年の寿命も兄から移し繋げただけ。 少年は足を失ったが生命は助かり、兄は自分の寿命の半分と生命力を失ったが、大切な家族を失わずに済んだ。互いが生きている事を噛締め合うように抱き合い、失ったものの大きさより、今確かに存在する幸せを喜んでいた。 (良かった、善良な人間達で) 抱き合う二人にシモンは安堵した。 人によっては、両足が戻らない事に悲嘆にくれる者もおり、そう嘆く人間達を見るのが、とても苦手だった。だから、出来る限り素直に願いを叶えてやりたい。 「じゃ、代償を貰う」 さすがにこれだけは悪魔として譲れず、青年から更に寿命を抜き取る。 それは白い光となってシモンの掌に納まった。青年は意識を失い崩れ落ちるが、少年に抱きとめられる。大丈夫、死んではいない。一週間ほど目を覚ませないだけ。 足の無い弟、身体が悪くなった兄。兄弟にはこれから困難の多い生活が待っている。人より厳しく、そして短い人生になるけれど。でも、少しでも一緒にいられるといいと思いながら、悪魔は静かに別れを告げる。 「契約完了」 魔方陣の檻は消滅し、小さな悪魔は時空の狭間に吸い込まれ、激しい流れに翻弄される。魔力が弱いせいで、時空を渡るのも他の悪魔に比べるとちょっと命がけになってしまう。 奔流に晒されながら、少し自己嫌悪に落ちる。あんな普通の人間に召還されてしまう自分の力の無さ。それに今回は自分の力の範囲内で出来る事で良かったと思っているが、結果的に人が喜ぶ内容は魔界では評判よろしくないのは確かで。 不意に時空の狭間から解放され、魔界の空に放り出される。落ちないように蝙蝠のような羽を広げ、魔力の満ちた大気を気持ち良く滑空していると、同階位の悪魔がけなしにきた。 「おい、シモン、お前また人間共の願いを素直に叶えたな。悪魔なら悪魔らしいやり方があるだろう。弟は直るが兄は死なすとか、両足の怪我は治しても弟を失血で死なすとか位が定石だろ。もう少し揚げ足とって、悪魔らしい契約をしろよ。お前はやる気無さ過ぎ。だからいつまで経っても呪いの一つも満足に掛けられないんだ」 「ほっといてよ」 思っていた通りの雑言にうんざりする。 俺は悪魔としての地位も力にも興味がない。人間が欲に足掻く無様な姿、悪魔に慄く表情、人間との契約の裏をかき嘲笑う悪魔、そのどれもがとても苦手だ。 軌道を変えて、自分のねぐらに帰る。 羽をたたみ、暗く湿った自分の寝床から、空に浮かぶ赤い月を見上げる。 先程の青年の代償を翳すと、禍々しい赤い光を吸収して尚、白く輝いた。 ごくん、とそれを呑み干す。 不味い。 この代償を失うのが悔しいという感情が混ざってないからだ。自分の犠牲を厭わないで差し出されたモノは悪魔にはとても不味い。自分の命を差し出した潔さが、俺の内でちくちくとした痛みをもたらす。けれど、胸の辺りがほんのり暖かい。 「今度からはもう少し、悔しがらせてやろう」 そっと嘯く。 今日も退屈で死にそうな位、魔界は静かだ。だから俺たちは地上の人間をからかい、日々の糧にするけれど、俺はそれほど熱心にはなれない。寧ろ召還が無い限り地上には絶対に行かない。でも長く生き続けていたらそれも当り前の事になるのだろうか。 ぼんやり赤い月を眺めていると、不意に視界が歪む。周りの大気が鎖となってシモンの体にまとわり付き、時空の裂け目に吸い込まれた。「また召還?人間の教育はなってないね、悪魔の呼び出し方、流布しすぎ」 呆れながら、先程くぐり抜けた時空の狭間に再び身を委ねる。ただ先程とは違い、暖かい流れに包まれるような穏やかな召還。 いつもこの位だったらラクなのに、とボヤいてみる。 投げ出される感覚にまかせていると、シモンは何かの上に落ちた。 「ぎゃっ」 体の下で何かが呻く。 「ってぇなぁ、何だってんだっ」 喚いたのは人間の男。その男の上に跨っていた。 「あれ?」 魔方陣は無い。 「てめぇ、誰に断って人様の上に勝手に落っこって来やがった!!」 シモンをつまみ上げた人間が怒鳴るが、瞬間固まる。 シモンが羽を広げ、目を光らせて威嚇していた。角こそ無いが、一応、立派に異形だ。 「くしゅんっ!!」 更に威嚇しようとした瞬間、シモンはくしゃみをした。人に恐怖を与える悪魔というには程遠い。 上半身が裸のままなのは羽があるせいで。羽を出したまま、衣服を変化させるという事がこの小さい悪魔にはまだ上手く出来ない。下は闇色のハーフパンツのみ。 そんな格好に、召還されたところが北風が強くなってきた晩秋ときた。慌てて体温を上げ、今更ながら、なんとも無いよという態度を取り繕う。 「お前、誰?」 悪魔っぽく見えているだろうかと、改めて人間を見る。 「俺はカミナだ、お前こそ誰だ」 (馬鹿だねこいつ。悪魔の前で早々に自分の名前は明かさない方がいいのをしらないのか?何もかもを支配されるんだぞ。まあいい、魔方陣が無いなら長居は無用だ) 「俺はね、見ての通り、悪魔だよ」 目を光らせ、ついでに牙も覗かせてやる。なのに、 「これ本物かぁ、コスプレとかじゃねぇのかよ」 「痛っ、ちょっ、触んな、痛いって!!」 恐れ気も無く、しかもやたら馬鹿力で羽を掴む。 「いやっ、やめろ!!」 (も、もげる。何?コイツの馬鹿力) もがくシモンを易々と押さえ込み、カミナの両手が体のあちこちを触りたくる。 「ハンズとかで今こんなヤツ売ってるぜ。あ、目はカラコンかよ、ガキのクセに」 「ち、違うっ!!羽生えてるだろっ、直に、背中から!!目も本物、光ってるだろうが」 髪をぐしゃぐしゃかき回され、ぐいと顎を捕らえられる。相手の赤い目に映りこむ自分がわかるくらいの超アップ。次の瞬間、頬を両方から引っ張られ口を開かされる。 「牙ってのは、ちょいと大きいこの犬歯の事かよ」 「ひ、ひたひ、ひたひって」 「角も無ぇじゃねぇか。普通あんだろ羊みたいなぐるぐるに巻いたヤツとか、せめてちみっこいのでも無いのかよ。この出来損ない!!」 (うわ、涙出そう〜。身体的コンプレックスを全部突いてくる。く、悔しい。たかが人間如きにっ) 「爪は丸い、耳も普通サイズ、体はガリガリ。んだよ、尻尾も無いぞ」 「や、ちょっとお尻を触るなっ、つか、ヘンな所に指を這わせるなぁ!!」 ハーフパンツの緩い裾から侵入した手が傍若無人に這い回り、シモンは盛大に鳥肌をたたせた。 「これで悪魔だぁ?しかも腕力で人間に押さえ込まれるってのはどうよ?」 抱き込まれて、身体中を撫で回される。 (うわーん、やだ。コイツ何?) 羽交い絞めにされた体を解放したくて、魔力で相手を突き飛ばそうと念を込めるが、一向に何も起こらない。むしろカミナの締め付けが強くなるばかり。 今度は竜巻を起こそうと試みるが、何故かそれが叶わない。背筋に悪寒が走る。 悪魔は存在自体が魔力だから、人間のように呪文に頼らなくても普通は超常現象は起こせるはずだ。 シモンは改めて呪文を唱えて竜巻の発動を試みたが、そよ風ひとつ起こらない。 「どうしたどうした三下、呪文も満足に使えないのかぁ。っとに出来損ないだな」 「な、なんで」 自分の両手をまじまじと見つめる。魔力が発動しない。こんな事は初めてだった。 (何だろう、さっきの召還のせい?いや、正しい召還主の元に行けなかったから?) すぐにでも魔界に帰りたいのに、これではその入口すら作れない。 呆然とするシモンに、カミナは高らかに宣誓する。 「人間様に敵わない下級悪魔、お前は今日から俺様の手下だ。俺の事はアニキって呼べ!!」 (バカだバカだ大バカだーーーーーっ!!この人間、大バカ過ぎる!!) がしりと掴まれた肩を首がもげる程前後に揺すぶられ、酔ったシモンをカミナは引きずりだした。 「行くぞ!!」 「ど、どこに?」 「俺ん家」 ぐい、とカミナがまた超アップで顔を覗き込んでくる。 なんでこんなにスキンシップが激しいのだろうと、シモンはうんざりした。 「お前の名前は?」 シモンの背中に冷たい汗が落ちる。 ここで名前を名乗るのは酷く危険だ。本当にこの人間の僕になってしまう。誤魔化そうと自分の名前とは縁の少なそうな適当な名前を考えている間に、焦れてカミナが口を開く。 「じゃ、俺がつける。お前はじゅげむじゅげむごこうのすりきれかいじゃりすいぎょのすいぎょうまつうんらいまつふうらいまつくうねるところにすむところももよももとせやぶらこうじのやぶこうじぱいぽぱいぽぱいぽのしゅーりんがんしゅーりんがんのぐーりんだいぐーりんだいのぽんぽこぴーのぽんぽこなーのちょうきゅうめいのちょうすけ」 やはり大バカらしい。 「…じゃあ長くて面倒臭ぇから、縮めてシモン、な」 やけに爽やかな笑顔を載せてカミナは満足気に決めつけた。 その瞬間、小さな悪魔は見えない鎖に身体と精神を絡め取られ、眼前の人間に逆らう事が出来なくなる。 (う、そぉ…何、このバカっぽい展開) 「どうした、シモン。行くぞ。」 カミナはそんな事情は露知らず、さっさと歩き出していた。 「どこをどう縮めたらジュゲムがシモンなんだよ」 相手に拘束された事を気取られないように、さり気なく文句をつける。 「一番目のシと 五九番目のモと 九二番目のンで、シモンだ!!」 「一番目はジだろ」 「語感がどうも俺様的にピンと来ねぇんだよなぁ」 「しかも何でそんな縁起のいい名前なんだよ」 「縁起がいいのは結構なこったろ?」 悪魔に?と突っ込もうとして止めた。なんだが口で敵いそうに無い気がする。 すでに支配権を握られてしまったので、何を言っても遅いし、いっそ本名の方が気が楽かもしれない。それにしても大バカは怖い。偶然でもいきなり主導権を掴んでしまっている。バカの特典なのだろうか? なんだかどうでも良くなって、シモンはとぼとぼとカミナの後について行った。 まあ、適当に願いを叶えたら、その内に帰られるだろうと諦めて。 カミナの家は町の外れの大きな古い洋館だった。しかもかなり荒れていて、なんだか悪魔でも棲んでいそうと、悪魔のシモンが思ってしまうくらいの雰囲気を醸し出している。 ずかずかと先に進むカミナに続いて家に入るが、中には人気が全くない。 「カミナ、家族は?」 「カミナじゃねぇ、アニキって呼べ!!家族は死んじまったよ、今じゃここに一人暮らしさ」 「ああ、だからこんなに荒れてるんだ」 男の一人暮らしを見事に表現したと言うに相応しい、ゴミが山と積まれ、物が散乱しまくったリビングに通される。 「ゴミくらい捨てなよ、アニキ」 その辺の物を片付けて、自分の座る場所をなんとか作ろうとしてみる。 「えーっと、ほら、お前の魔法とかでぱぱっと片付けられねぇのかよ」 照れ隠しなのか、口を尖らせてさっそく主人の権限を行使してくる。 「えー」 面倒臭いと思いつつ、念じてみる。ゴミはキチンと分別してゴミ置き場に、ちらかっている物はあるべき場所に。 ふわっと光が身体から放たれて、それはあっさりと叶った。 「さすが魔法少年。完璧なお片付けご苦労」 ほほお、と初めて感心しながら部屋をながめる。 「いや、ちがうから、魔法少年は人間に対して使われる名称でしょうが。俺は悪魔です」 自分の魔力の発動に少しびっくりしたが、これは契約主となったカミナの命令だからだと気付いて、溜息をつく。既にこの人間の下僕になっていると実感すると酷く憂鬱だった。 「羽、仕舞っとけよ。お前の鈍臭さだと、絶っ対ぇそこいらにぶつけてモノ壊すぞ」 しゅるんと即座に羽が消える。そうするとシモンは上半身が裸の寒そうな格好になる。 「ちょっと待っとけ」 暫くするとカミナは小さな空色の上着をシモンに渡した。 「これでも着とけ、風邪ひくぞ」 変なところに気が利く人間だなぁと思いつつそれを受け取る。 すっかり普通のリビングに戻ったソファに腰掛け、主人になったカミナは寛ぐ。 「悪魔ってのは人の望んだ姿をするっつうけどお前も出来んのか?」 便利なアイテムが手に入ったと思っているのか、何か命令したそうにシモンを見る。 「なんかヤラシイ事考えてない?金髪グラマラスな女の人とか」 ニヤけるカミナを冷たい目で見つつ、受け取った上着を羽織る。 「悪魔の常套手段っぽいけど、個体差と経年能力差があって、お生憎様だけど俺にはまだムリ」 「さすが三下、見事な無能力っぷり」 「も少し年を経れば出来る!!」 はず、と付け足したのは心の中限定。 「ガキにはまだ無理ってことか」 「俺はこう見えても54、アニキより年上!!」 ぷん、と憤慨してカミナに鼻先に指を突きつける。 「ふーん、んな風には見えねぇ」 気のない返事をしながら、頭をぐしゃぐしゃと掻く。 「まあ、いっか」 「何が?」 カミナの手がせっかく羽織った上着の前を寛げる。覗き込んでくる目の奥には情欲がちらついており、シモンは察し良く納得する。これを契約内容にして、さっさと片付けて還れるだろうかと思ってみたり。 脱がされた上着が床にすべり落ちる。 「アニキそういう性癖のヒト?」 カミナの目の奥の情動が、色を変えた。 「やっぱりこいつはお前には着させられない」 「?」 カミナの手がシモンの頬を撫で、ゆっくりと首、肩、腕と降りる。何かを確かめるように足までを辿り終えると、体に縋るようにひざまずき、小さい肩に額を押し付ける。 「それは、シモンのだから」 不可解な台詞と、性的というより慈しむような愛撫に、シモンは只されるがままに立ち尽くす。 「羽、出せよ」 耳元で囁く低く掠れた主の命令に素直に応じた羽は、小さい闇色を再び広げる。 羽の付け根をゆっくりと撫でられ、身を捩る。人で言うなら肩甲骨の内側あたり、そこはなんだかくすぐったい。甘い疼きがじわりと広がる。 「シモンは死んだよ」 何を言っているのか解りかねた。けれど小さな悪魔はすぐに、カミナの頭越しにリビングの本棚に立てかけられた写真を見つける。 そこにはカミナと、自分に瓜二つな少年が笑って写っている。 「ア、ニ、キ?」 「夏に、俺の目の前で車に押しつぶされた」 (夏?数ヶ月前の事、だよね。俺が似ているから、混乱しているの?) 似たものを目の前にしての意識の錯乱だろうかと訝しんだ。 「たった一人の俺の弟だった。親父やお袋が居なくても、俺達は二人で生きて来たんだ」 「俺はカミナの弟じゃない、俺は悪魔だよ」 (俺が数ヶ月前に死んだ人間の訳がない。でも) 同じ名前と同じ顔。世界がきしむ音が微かに聞こえ、シモンの心に冷たい何かがそろりと触れた。 「愛してたよ、周りにはブラコンだっつってよくからかわれたけど、んな事は気にならねぇくらい」 カミナはシモンの言葉を無視して囁き続け、撫でる手も止まらない。 「愛してたよ、血を分けた弟なのに、他の誰よりも欲情した。てめぇの妄想ん中で何度も犯した」 囁き続けるカミナに気圧される。 「愛してたよ、シモン。死んじまったのを受け入れられないくらいに」 歪んだ感情に巻き込まれていく。 「だから望んだ、俺の全てを差し出すからシモンを蘇らせろ、と」 悪魔との契約をカミナは告白するが、それでは自分の存在が成り立たない。 カミナの指が細い腕に食い込み白くなる。ぎり、と音を立てたのは腕ではなく、魂。 「ま…さか、お、れ?」 そんな事は信じられない。知覚を拡大させ、魔力の探知を試みる。こんな人間にも出来る悪魔召還などそうそうあるはずもないのだが。果たして、シモンの探知に魔導書の存在が引っかかった。 古い洋館には先祖からのものなのか、雑多に収集され蓄積された古書が唸るほど地下に眠っていた。そして誰がどういう目的で集めたのかわからないが、本当に魔力を宿す魔導書があった。幼い日に兄弟が一読したのは偶然だろうが、接触の記憶が本から感知できた。埋もれて、おそらく一生思い出す事もないような古い記憶をカミナは引きずり出したのだ。 「誰と契約したの?」 告げられたその名前は、遥か上位の悪魔の御名。 その名前を囁かれた途端シモンの中に隠されていた封印が解け、カミナの弟で人間のシモンであったものの意識が内側から溢れて満ちていく。 すでに大きな悪意に捕えられていたのだ。人間を助けてしまう自分の性格、元が人という魔力の弱さ、ここへの不自然な召還。 悪魔としての紛い物の記憶が剥がれ、次々と甦る愛しい記憶と切ない感情。 ひたすら兄を慕う気持ちと、身を焦がす肉欲が伴う気持ちが、溢れて身体にしみわたっていく。常にそばで惹かれながら、叶えられる事のない、甘くて際限ない懐かしい痛み。 「愛してた、愛してる、シモン。もっと優しくしてやりたかった、めちゃくちゃにしてやりたかった。全てから守ってやりたかった、二人で堕ちていきたかった、殺して俺だけのものにしたかった、俺の醜い感情と離れさせて幸せにしてやりたかった、絶対に離れたくなかった」 壊したくて壊せない日常。想いだけが募っていき、息も出来ぬほど焦がれ、愛しくて辛くて、互いの想いが堪らず溢れようとした時に、ふたりに訪れたのは、第三者がもたらした突然の別離。 「なんで俺だけ生き残ったんだ…」 押し寄せてくる後悔と圧倒的な嘆き。それを受け止めきれずにカミナは人の道を外れた。 そして召還した悪魔の成した業は、人としてではないシモンの再生。 「許せなかった…、俺を残して死ぬなんて」 その歪んだ怒りのままに背中の羽を握り締め、力を込める。 「兄貴」 シモンの声に上げた顔のその目は酷く怯えて、羽を握り締めた力が緩む。 「シモン?」 「オレも、兄貴を愛してたよ、寝たかった。今、オレとセックス、する?」 押し殺していた欲望が口をついて出る。甘い疼きが奥底から湧き上がる。 カミナの瞳の奥に炎が揺らめいた。 「しない」 不適な笑みをのせて、カミナはオレに言い放つ。 小さい衝撃がシモンを襲う。胸の奥が痛いのは、人としての心が彼の拒否を嘆いているせいだろうか。 「お前はシモンじゃないから」 羽がみしりと音をたてた。再び力を込めたカミナの手が左羽引き抜こうと力を込める 「シモンがもしそう思っていたとしても、あいつは絶対そんな事は言わなかった」 「そう、だから今なら叶えられるよ。俺はもうシモンであって、シモンじゃないから、今なら好きに出来るよ」 加えられる痛みより、自ら発した言葉にシモンは慄く。人の欲望を叶え堕落させようとしているその言葉に、自分がもう人ではないのだと知る。この兄の望みを叶えてやりたい、それがせめてもの贖いだと思っているのは、既に悪魔の習性だ。 「そう、お前はもうシモンじゃないんだ。こんなに姿がそのままのアイツでも、お前はもうシモンじゃないんだ」 きっとシモンはこんなものになりたいと望んでなかった。己の醜い感情の結末が目の前で蝙蝠の羽を広げている。 再び力を込めたカミナの手が左羽の間接を捻じ曲げ、骨と神経を晒して変な方向にだらりと垂れた。 背中の痛みと心の痛みに、シモンが眉を顰める。 「でも、こまった顔も、そのままなんだな」 歪んだものを願ったと、カミナが自嘲気味に笑う。 渦巻く感情を振り払うように、片方の羽を力任せに引き千切る。 床に黒い羽と象牙色の骨が投げ出された。背中を伝って落ちる熱いものは、おそらく血。 けれどシモンには背中の痛みより、心の痛みの方が重く辛い。 「オレには、もうこういうかたちでしか、兄貴の望みには応えられない」 兄貴が道理を捻じ曲げてしまう程にオレを愛してくれたのは嬉しいのに、今の俺はカミナの望みが、絶望として成したカタチ。 思い出す。死の闇に落ちる瞬間のオレの望みは、あのまま亡くなって永遠にカミナに、オレの存在を刻み付ける事だったのに。「どうして望んでしまったの?」 搾り出された小さな呟きに、右の羽も千切ろうとしていた力が緩む。 「兄貴の側に居た、それだけでオレは幸せだったのに」 この言葉が人のものなのか、悪魔が誘惑にのために発しているものなのかシモン自身がもう分からない。 兄貴の視線が逸らされる。大好きだった空色の髪が小刻みに震えている。 「お前以外、なんも欲しくねぇんだよ」 「兄貴が俺を狂わせたのに、そんな事を言わないで」 己が望んだはずなのに、こんなモノにしてしまった己が許せず、でも手の中にある温もりに喜ぶ自分が確かにいて、浅ましくて、悔しくて。 ガクンとカミナの身体が大きく揺れる。羽を掴んでいた手が離れ、縋るようにシモンの頬を撫で、零れそうな大きな瞳を見つめる。 シモンの瞳に移った己の顔にはもう生気が宿っておらず、契約が完了に向かっていくのを悔やみながら見つめる。 あの日、召還した悪魔に、息絶えた弟の救済を懇願した。 「弟を生き返らせろ、でもゾンビじゃねぇぞ。昨日までのシモンの魂と姿形のままでだ」 「死んだ人間をそのまま生き返らせるのは無理だ。特に人間のような弱い生き物は、転生させるしか出来ない。時間も少々掛かるしね」 「それでもいい、でも俺のこの目で確かめさせろ。もう一度シモンが俺の前で笑って、兄貴って呼ぶのを」 承知したその悪魔は数ヶ月待てと云い、シモンを連れ一旦魔界に戻った。 そして血と肉の塊になってしまったシモンに新しい生命力を吹き込んだのだ。悪魔の生命力を。人の生命力では既に死んだ人間を甦らせる事は敵わず、より強靭な生命力である悪魔の力を吹き込む。過剰に悪魔の姿を成さないように、やさしい性格もそのままに。記憶を封じて、望んだ再会が絶望ら変わるように。 生ける屍になる事を回避出来たかのように見せて、決して望んだ通りにはしない。 魔界で小さな悪魔に変化していくシモンを見やり、悪魔は微笑む。 「人に転生させろとは、承っていない」 「もう一度見たかった。俺の無茶にこまったような笑顔を向けるのを、兄貴と呼んでくれんのを」 あの日と同じように血を流すシモン。その羽さえなければ見た目は全く違わないのに。どうしていいのか悩む気弱だった弟の表情は変わらないのに。 こうしてもう一度触れられるのを望んでいたのに、これを最悪のまがい物にしてしまったのは、自分自身だ。 「あにき」 頬を包む両手に自分の手を重ねる。体温が失われていくのがわかる。 消えていく身体と、己の所業に苛まれるカミナの姿に昏い喜びが湧いてくる。どうして陶然としてしまうのだろう。 「あったけぇ」 頬を撫でる手が弾力を失い、無機物に変化していく。 「生きていてくれ」 身体が灰になって崩れ始める。眼差しから光が消え、そして、 「俺のいない世界で、永遠に存在し続けて苦しむがいい」 劫火のような呪いの言葉を投げつけ、カミナであったものが一片も残さず消滅した。 同時に、身体と精神を拘束していた鎖も消滅したのを知覚する。 そして、カミナの本当の契約者が、静かに俺の側に顕現した。 「契約完了」 炎の様な緋の髪がふわりと揺れた。 「カミナの代償とは、なんだったのですか?」 「存在そのもの。彼の魂は転生せずに消滅する」 彼の最期の言葉が俺を新たな鎖で絡め取る。 「彼は中々能弁だったわよ。ゾンビじゃないぞって言ってたわ。君はゾンビで甦って彼に殺される方が良かった?」 彼の手で殺されるならそれも良かったかもしれない。倒錯した思いに耽る。 彼女、ヨーコと呼ばれている悪魔が、契約をした時のカミナを映し出す。 絶望に侵されながら、爛々と燃える瞳で契約の言葉を吐く。彼の全身が血の色に染まっているのは、かつては人であったものを抱き締めているせいだろう。それは俺と同じ闇色の髪。人であった頃の俺。 人の絶望を見越した悪魔の契約は完了。 ヨーコは先程のカミナの最後の慟哭や絶望の深さをいたく満足そうに思い出し、微笑んだ。 「彼に同情する?」 そう云いながら、シモンの羽に治癒を施す。 「いえ、わかりません。俺は悪魔だから」 蝙蝠の黒い羽は小さな闇を再び広げる。彼が最後に残した痛みも消えた。 「悪魔は、人に作られるんですね」 人であった時の愛しさを摩滅させて。彼の呪いをこの身に受けて。 残ったのは、以前より退屈なぼんやり薄暗い闇を湛えた未来。 悪魔は悪魔の望む通りでしか、人の望みを叶えない。 彼女は金色の優しい眼差しを俺に向ける。 そうして小さな悪魔は、魔界に戻った。 相変わらず人間は悪魔を召還する。 けれど悪魔は契約の言葉尻を掴み、揚げ足を取り、人が苦しみ絶望するのを喜ぶ。 俺は相変わらず人間の望み通りの契約を執行し、窮屈に生きている。 カミナが望んだ通りに、独り闇で存在し続けて欲しいなら、俺は存在し続ける。俺は悪魔だから。人であったシモンはもう存在しないから。 彼の願いは叶えられた?
<END>
|